01:Prelude

 徳永(とくなが)は、感情のままに涙を流していた。 
 ホールに拍手の音(ね)が響く。
 歓喜の洪水はすべての観客を包み込み、幸福感で満たした。
 紅潮した表情のまま指揮者とソリストが互いに抱き合い、客席に向かって手を挙げてみせる。
 今この時、彼らは確かに光輝く渾身の音楽を作り出したのだ。
 友人が手に入れた栄光を浴びながら、徳永は流れる涙を止めることはしなかった。

 水曜夜と、土曜の午前。週に二度の練習のためにアキハバラ交響楽団のスタジオに向かう。秋葉原にあるスタジオは、神田明神の方面へ向かっていった道沿いにある。坂の途中にあるせいか、自転車で走っているといい運動になる。これで楽器を背負っていれば漕ぎ切ることは素直に諦めていたかもしれないが、自分の身体とリュック一つであれば余裕だ。

 徳永(とくなが)澄人(きよと)―アキハバラ交響楽団のピアニストである彼は、スタジオの敷地内にロードバイクを止めて中へと入っていく。既に灯りがついているのは、誰よりも真っ先に来るヴァイオリニスト、舘野(たての)優(ゆう)だろうと踏んでいた。
 開けっ放しにされたドアの向こうから聞こえてくるアリアは、いつも舘野が練習用にと選ぶ曲だ。手慣らしだろう、繊細な音色が広がっていた。
 徳永は、ほんの少しだけ立ち止まって聞き入る。
 弦楽器は専門外だが、聞き慣れたせいか、音色の違いはわかる。舘野の奏でる音は繊細で儚く、まるで掌にこぼれ落ちた雪の欠片のようだ。淡く溶けて、余韻だけを残して消えてしまう一瞬の名残り。
 フレーズが終わってから徳永は部屋に足を踏み入れる。ヴァイオリンを下ろした舘野がこちらを振り返って目を細めた。
「おはよう、舘野」
「徳永か。今日は早いな」
「今週は残業で遅刻したからな」
 社会人でもある徳永は、平日夜の練習は残業で間に合わないことがある。その分、土曜の練習には早めにスタジオ入りしておくのが常だ。しかし、今日はヴァイオリンの舘野以外はまだ来ていないようだった。徳永はリュックを置くと、楽譜のファイルを取り出す。ピアノの蓋を開け、指鳴らしのハノンを弾き始めた。
 PCのキーボードに慣れてしまうと、ピアノの鍵盤は少し重く感じてしまう。
 右手が特に重く感じるのは、昨夜、日付が変わるまで残業していたせいだろう。週に一度、水曜の定時退社をもぎとるために、他の曜日に少し無理をしていることがあったが、昨夜は少し頑張りすぎた。
 もう一度、最初から指を鳴らし始めると、開けっ放しだったドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。そろそろ時間だ、団員が集まってくる頃だろう。
「おはようございまーす」
「あぁ、おはよう」
 手を挙げて挨拶するけれど、舘野の表情が僅(わず)かに硬くなったのを徳永は見逃さなかった。前回のリハで舘野と口論になったホルン担当だ。舘野の気質であれば、前回の口論を忘れてはいないだろう。特に、繊細で神経質な性質の舘野であれば。
 舘野は一瞬の後に涼しい顔に戻ると、弦の張りを調整している。次々に団員たちが入ってくると、もういつもの空気に戻っていた。

 各自がリハの準備を始めているが、時間になっても一向に指揮者が来ない。先月、創立者であり指揮者の日山(ひやま)の妻が病気で入院しているせいで、しょっちゅう日山が病院に行っているのを徳永もメンバーも皆知っている。今日も遅刻だろうか、と皆がざわめき始める。慣れたものではあるが、連絡がないのが心配だった。
 日山が練習に来られない日が増えてきてから、新しい指揮者が三人応募して来たが、いずれも最初の練習で去っていった。団員はコンマスの舘野が追い出したと言う。それが原因で前回の練習でも口論になったのだが、音楽に真剣に向き合っている舘野にとってはレベルの低い指揮者に従う気もないのだろう。
 ポケットから携帯端末を取り出して確認する。日山はおっとりと温厚な性格ではあるけれど、それゆえか時々抜けていることもある。連絡がきていないことを確認して、容態が急変したとかでなければいいが、と徳永は日山の連絡先を探す。

 徳永が日山と出会ったのは、社会人になってすぐの頃だった。音大こそ出ていないものの、毎日のように実家でピアノを弾いていた。教室ではそこそこ弾けていたが、趣味の域を出ないことも自覚があった。しかし、社会人になって一人暮らしをし始めると、途端にピアノを弾ける機会がなくなることに気がついた。1Kの部屋にピアノは置けない。ましてや、防音設備すらない。
 電子ピアノを買う余裕も無く、仕事帰りにピアノ店の前でぼうっと立っていたところ、出てきた男に声をかけられた。それが日山だった。人が行き交(か)う路上、ピアノの話で盛り上がった挙句(あげく)にその場の勢いでピアノセッションをやろうという話になった。それがアキハバラ交響楽団の始まりだ。日山と徳永しか知らないエピソードだった。

 ふと、目線を上げると、いつも以上に険しい舘野の表情が目に入った。苛立っているのは、連絡もないまま来ない日山に対してではなく、日山が不在のせいで前回と同様に無残な練習になると予想してのことだろう。
「ちょっと、連絡入れてみる」
 その場で日山の携帯に電話をかける。指揮者不在で団員たちが雑談に興じ始めると、途端に騒がしくなる。
 もう片方の耳を手で塞いで、徳永はコール音を聞いた。
 急に、ざわめきが大きくなる。ふわっと、その場には似つかわしくないパルファムとアルコールの混ざった香りがしたのと同じタイミングで、日山が応答した。
 開いたままのドアが、締められる。俯(うつむ)いた視線の端に、歩いて行く人影が見えた。

『はい、日山です』
「俺です、徳永です。日山さん、今日の練習は」
『ん、あぁ、あれ、連絡入れてなかったっけ?』

 人影が、中央で止まる。
 ざわめきが、一瞬で止まった。
 妙な空気に包まれた中で徳永が顔を上げると、指揮台には人懐こい笑みで団員を見回している外国人がいた。
 なんだあれは。妙に楽しそうにニコニコと笑っている。ラテン系か。
 耳元で、日山が至極重要なことをさらりと口にする。

『今日からね、指揮者、新しくなるんです。言いましたよね?』
「いや、聞いてないですって……」
『言ってませんでしたっけ?』
「アンタってホント、そういう大事なこと抜けてるんだから」
『あはは、すみません。えっとねぇ』

 酒臭い男を目の前にして、なんだあれ、とか。あの人だれ、とか団員たちがざわめいている。
 うるさい、日山の声が聞こえない。
 今すごく大事なことを話しているのに。

 耳元で、日山の声と目の前の男の声が重なる。
『名前は―』
「俺はルカ・フェランテ。今日からこのオケの指揮者だ、よろしくな?」

 一瞬の沈黙。
 徳永は、「それじゃ徳永くん、よろしくおねがいしますねぇ~」という間延びした日山の声を最後に、端末を手から滑り落とした。

 この、胡散臭い酔っぱらいが、次の指揮者だと?
 団員の全員から、絶叫に近い悲鳴が上がっていた。
 徳永ですら奇声を発し、ピアノの譜面台に額をぶつけた。

 ―アキハバラ交響楽団、定期公演まであと半年のこと。

   02:Animato

 新しくやってきたラテン男はいろんな意味で今までの指揮者とはかけ離れた男で、舘野は内心の苛立ちに一層の拍車がかかる。そもそも、前回の練習で口論になった原因も、団員が真剣に練習に取り組まないことが原因なのだ。それなのに、新しくやってきた指揮者は頼りなくて、さらに舘野はげんなりとしてしまう。
 ラテン男は指揮台につまづいて転ぶ。身を支えようと咄(とつ)嗟(さ)に伸ばした手で楽譜を掴み、ぶちまける。おまけに拾った楽譜はバラバラ、くしゃくしゃ。
 こんな、酔っ払いの頼りない男が次の指揮者だというのか。

 舘野は内心で、潮時だろうかと思案する。
 日山に誘われてアキハバラ交響楽団に入ってから、ここまで落胆したことはなかった。日山の人柄の良さと紡ぎ出す音楽の心地よさに今まで我慢してきたことがいくつもあった。
 その内の一つは、他のメンバーとの音楽性だ。舘野は昔からクラシックを学んできたし、音大で何度もコンクールで入賞している若手実力者だ。
 一方で、団員の多くは学生時代の趣味を昇華させたくてやってきている者が多く、彼らの姿勢は「楽しければいい」だ。技術の向上よりも、和(わ)気(き)藹(あい)々(あい)と楽しむことこそ音楽だと考えているのだろう。それは、舘野のこれまでの考え方とは異なる。指揮者も日山からあの変な男に変わるなら、自分はまたどこか違うオーケストラで演奏しながら、働けばいい。
 そんな風に思案していると、漸く立ち直ったらしいラテン男、ルカが改めて指揮台に立つ。楽譜は破れることなく無事らしい。
「改めて。昨日ヒヤマからこの楽団の指揮を頼まれたルカだ。Piacere(ピアチェーレ)!」
 ルカがウィンクすると女性陣から歓声が上がった。だが、やっぱり酒臭い。顔をしかめたまま舘野は、ルカと視線を合わせようともしなかった。
 団員たちはざわついている。指揮者の肩越しに、チェロ隊が特に騒がしい。
「昨日って、どういうことですか?」
 引き攣った顔で挙手した徳永が問うと
「うん、昨日、居酒屋でヒヤマから勧誘されてさぁ。楽しそうだからオッケーしちゃった」
と、ルカはなんだか音を外した下手くそなホルンのような、ふにゃっとした顔で笑って言った。
 
 この男が言うには、どうやら昨夜のこと、立ち飲み居酒屋で一緒になった日山に、自分の代わりに振ってくれと言われてやってきたらしい。その後テンションが上がり一人で飲み屋をハシゴして、朝まで飲んでいたそうだ。どうりで酒臭い。
 一方で、ガムを噛みながら様子を見ていたドラムの竹(たけ)之(の)内(うち)かよ子が挙手する。
「指揮できるんですかぁ」
「できるできる、これでもオーケストラの経験はあるんだぞ!」
 なんでこんな胡散臭くてオケで振った経験のあるラテン男と居酒屋で出会ったのかは知らないが、舘野はあからさまに溜息を吐出した。やってられない。
「アンタがコンマスか。美人だとやる気が出るなぁ」
 よろしく、と差し出された手を舘野は無視した。そのまま楽譜を閉じて椅子を立とうとする。
「君が指揮者だとやる気がでない。帰らせてもらうよ」
 素っ気なく言うが、指揮者の男は気分を害した様子もなく、むしろ背後からかかった徳永の声に、舘野の足は止まった。
「んなこと言うなって、……えっと、ほら。せっかく来てくれたんだし、とりあえず一度だけでも合わせてみようぜ」
 日山と共に創立メンバーである徳永は日山に似て、メンバーの潤滑剤になることが多い。その分面倒を背負うことも多ければ、団員との板挟みになって胃痛を患うことも何度もあった。今でも胃薬は欠かさず持ち歩いているらしい。
 それに、古参のせいか妙に徳永の言うことに従うメンバーも多い。他のメンバーが「徳永が言うなら」と応じ始めるのに、舘野はここで意地を張っても仕方ないと思ったのだろう、椅子に座り直して譜面に視線を向けた。
「それじゃ、えっと、オープニング曲の頭からやるぞ」
 指揮棒を上げると、何だかんだと言っていた全員が渋々でも楽器を構える。
 ルカの表情が変わった。全員の視線に応(こた)えてから、ルカが指揮棒を操る。
 だが、すぐに舘野の機嫌はさらに悪化した。兎角、練習してきたのかと問い詰めたいような音をしている。
 たかだか数小節で音を外すヴィオラがいる。
 クラリネットがリードミスをする。リードの調整くらいしてこい。
 ホルンは音のしまい方が汚い。
 オーボエは周りの音が聞こえていないせいで、メロディラインの入りが早すぎる。
 舘野はヴァイオリンを下ろしてしまいたい衝動に襲われたところで、ルカが手を振った。
「ん、ちっとストップ―」
 間延びした声で制してから、ルカは譜面を再度辿り「んー」とイタリア語で独り言を小さく呟いている。全員が、まず最初に何を言い出すのだろうという表情で見つめていると、セカンドクラリネットの青年に視線を向けていた。
「そこのクラリネット、リード割れてないかな。変えておいで」
「オーボエはせっかく見せ場なのに、ちっと走りすぎかな。よーく音を聞いて」
「あとね、ホルンはね、音がなんか投げっぱなし。もうちょっと集中してみてごらん、Cの三小節目からの、メロディラインね、かっこいいところだから」
 それから、それから、と。一人ひとりに細かくアドバイスをしてる最後にルカは舘野に視線を向ける。じっと見つめてから、全員を見渡して言った。
「俺のコト見て周りの音聞いて、ノってきてごらん」
 すげー楽しそうに見えるだろ? これ、一番大事だかんな。
 そういったルカは最初の印象の通りに間の抜けた、いや、肩の力を抜いた表情で笑った。内心で舘野は彼に対して、一人の人物が思い当たる。名前に聞き覚えがあったのだ。しかし、本人かは疑わしい。
 相当に優秀な指揮者だ。メンバーの音を聞き分けているし、指摘も的確だ。耳も良い。
 そういえば朝方まで飲んでいたというが、一体いつ楽譜を読み込んできたのだろうか。まさか初見ではあるまい。
 本人ならば、なぜこんな楽団の指揮者に就任したのだろう。
 舘野は少しずつ、ルカに対して興味を抱き始めていた。

「ほい、そんじゃもっかい頭からね。よーく、俺の方見ててごらん。Divertiamoci(楽しもうぜ)!」
 ルカはそう言って、譜面を戻す。舘野は、沸いてきた雑念を振り払ってから弓を構える。演奏が始まると、舘野はルカがとても楽しそうに踊るように演奏しているのに気付いた。
 音が、変わっていた。
 団員たちがルカをきちんと見るようになってその動きにつられるように、音が楽しそうに弾んでいる。
「おっけ、クラ、いい音してきた! いいよぉオーボエ、よく周りを聞いてるね!」
 言う通りだった。クラリネットからリードミスの音がしなくなった。
 オーボエは周りを聞くようになったし、ホルンは音に雑音がなくなった。
 一体、どんな魔法を使ったのだろう、と舘野の視線はルカを改めて見つめる。若干の無駄な動きもあるものの、心から楽しそうに指揮棒を振っていた。
 タクトを振り回しながら、上手くいっているパートに声をかけている。心底、楽しくて仕方がないという顔だった。
 唐突に舘野の中に一つの情動が湧き上がった。なぜだろう、指揮棒を振る手元から目が離せない。このままずっと、眺めていたい。
 そこにあるのは、舘野にとっては魔法の手だった。

 一曲目を最後まで通すと、まるで子供のようにすごいすごいとルカは手を叩いて、指揮台の上ではしゃいだ。
「いいじゃん、すげーよくなった!」
 確かにルカの言う通りに音が良くなってまとまっている。人前で聞かせられる程ではなくとも、前回の練習で日山が振った時よりも格段に良くなっていた。

 舘野は耳に残る余韻にしばらく経っても浸っていた。まだ、自分が興奮しているのが感じられる。初めて日山と演奏した時の心地よい感覚とは違う。まるで、学生の頃に初めてオーケストラで弦を鳴らした時のような、あの情熱が、手を震わせた。
 喜び合う楽団員を置いて、独り静かに興奮に身を委ねていた舘野が席を立ち、スタジオを出て行く。
「おい舘野、どこ行くんだ」
「……少し休憩しよう」
 先日舘野と口論していたメンバーも、不思議そうに舘野の背中を見送る。
 声をかけた徳永自身も興奮が冷めないのか感覚を忘れないようにと同じフレーズを鍵盤に刻みこんでいたが、チェリストの尾上(おのうえ)真(しん)が携帯端末を片手に悲鳴を上げているのが聞こえた。
「やっぱり……やっぱりそうだ、Luca Ferrante、あの伝説のシカゴ公演の指揮者だ!」

 舘野はホールを出るとエレベーターを上がって屋上へと出る。ここからは秋葉原電気街に立ち並ぶビルが見えた。空を静かに眺めながら、舘野は手にしていたヴァイオリンで、主旋律を掻き鳴らす。胸の奥に熱が残っていた。
 あの胡散臭い男は、間違いない。二〇一五年にシカゴフィルハーモニーの定期演奏会でたった一度、客演指揮をして大きく話題になった男だ。大きな指揮者コンクールではそこそこの成績を出しているようだった。しばらくはアマチュアのオーケストラで振っていたが特に目立った活躍もない。それが伝統的シカゴフィルハーモニー客演指揮者として鮮烈にデビュー公演を果たした。
 だが、彼はその直後に失踪していると聞いたが、まさか日本に来ていたとは。
 ぐるぐると止めどなく思考が回るのを止めたのは、背後から来る男の足音だった。追いかけてきたのだろう。舘野が振り返ると、ルカはシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。
「いいヴァイオリンだな」
 傍らの柵に寄りかかったルカに、舘野は静かに問うた。
 あの、シカゴ公演のあと。
「なんで、逃げたんだ」
 紫煙をくゆらせるルカに、視線だけを向ける。
「色々あるんだよ。……お前だって、色々あって此処にいるんじゃねぇのか?」
 ルカも、視線だけを舘野に向ける。吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し付ける男を眺めながら、それで納得できるような答えを用意したつもりか、と内心で一人ごちる。
 とはいえ、舘野も同じようなものだと自覚していた。学生の頃は神童と言われパリへ留学したは良いものの、結局のところは井の中の蛙だったことを否応なしに知らされた。その気になれば世界で活躍するヴァイオリニストになるだろうと言われ続けてきたが、所詮はこんなものなのだと気付いてしまった。以来、中途半端な熱情を持て余して、このアマチュアオーケストラに所属している。
 だが、ずっと持て余してきた熱を、こんな風に昇華したのは久しぶりだった。
「そんな熱っぽく見つめて……俺に惚れた? なんてな」
 じっと指揮者の指先を見つめている舘野に、彼は冗談めかしたように言ってみせる。だが、舘野はルカの左手を取って、指先に唇を触れさせた。
「そうだな、君の指先にキスしたくなった」
 手首につけているのだろう、パルファムとアルコール、それから煙草の香りがした。舘野は深く息を吸い込んだ。

 目を閉じて、その香りを嗅覚に、脳に、記憶に焼き付ける。同じ香水を使っていたとしてもきっと同じ香りはしないだろうから。

「ところで君、あのゲームの作品知らないだろ。解釈が滅茶苦茶だった、……指揮は素晴らしかったが」
 手を離した途端に舘野は肩を竦める。瞬きを繰り返すルカに、さらに舘野は続ける。
「あのゲームをプレイせずに演奏するなんて許されない。必ず一からプレイするように」
 厳しく言い渡すものの、舘野自身もパリ留学から日本に戻ってきて、日山に出会ってからゲームにのめり込んだ自覚はある。だが帰国して以来、何にもやる気がしなくてふらふらと彷徨っていた自分を救ってくれたのは日山の紹介してくれたゲームのストーリーだった。紡がれるストーリーに、キャラクターに、音楽に。動かなくなり始めていた心を取り戻した。
 自分が味わった感動を、ルカにも味わって欲しかった。
「厳しいなー。そんじゃ、あとでソフト買いに行くから付き合ってくれ」
「いいだろう。必ず全員を仲間にするように。洩れは許さないからな」
 手厳しい、と笑うものの、ルカは舘野の口調に音楽に対してもゲームに対しても愛情が深いことを知ったようだ。愛情が深い分、自分にも他者にも多くを求めてしまう。不器用な男だが、過去に出会ってきたどのコンマスよりも興味を惹かれる。それだけでも、日本に来て良かったとさえルカは思っていたが、館野はそんなことに気付かず腕を組む。
「オープニングの旋律だが、この旋律はエンディングで合唱が入る。サントラは貸してやるから、必ずライナーノーツまできっちり読むように」
 自分の理想のままに音を紡ぎ出す舘野の心の底から楽しげな様子を、ルカは柵に頬杖をついて、幸せそうにそれを眺めた。
 二人を呼びに来た徳永も足を止めて、少し離れたところから聞き入る。ここ最近ずっと不機嫌だった舘野が楽しそうにヴァイオリンを鳴らす姿に、口元が緩んでいた。

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