001 

 恋人の寝室の扉が、重く閉じられていた。
 なんの変哲もない、普通の木材の扉だ。鍵がついてるわけでも、重厚で高価な装飾がされているわけでもない。
 都心部の高層マンションの一室だ。
 もとは寝室ではなく書斎だったが、その部屋の中が今どうなっているのか俺は知らない。
 扉をノックしようとした手が宙で止まり震える。何度か振り上げては拳を下ろし、このまま静かに家を出てもいいのではと弱気になった。なんのためにノックをするのか考えたが、恋人の声が聴きたいというよりも、黙って出ていった後のヒステリーが怖いという理由が大半を占めた。
 あんなに、愛したはずの人に対して、とんでもなく冷たいことを思っている。自覚はあった。
 ダークブラウンの木目を数えて、中の気配を伺う。まだ眠っているのかもしれない。中はとても静かで、人の気配すらもしなかった。けれど、中に恋人がいることは確信できる。恋人は、早朝から起きてくることはまずない。朝陽が昇って数分のこの時間は寝ているのだろう。
 ならば、やはり無視して家を出てもいいはずだ。
 寝ているところをわざわざ起こす必要もない。あとから何か言われたら、寝ていると思ったと言えばいい。向こうに着いてから、メールで連絡をすればいい。メールですら返事はロクに来ないのだ。
 そこまで思いながらも扉の前から逃れられなかったのは、もしかすると返事をしてくれるかもしれないという期待だった。
 俺のすべてを拒絶するように立ちはだかる扉の向こうから、気怠そうに返事する恋人がいるのではと。
 期待とともに、返事がなかったらどうする、という恐怖もあった。
 それは、寝ているだけだ。そう思うことにする。
 俺は何度目か振り上げた拳を、一度唾を飲み込んでから扉に軽く叩きつけた。二回、優しく、気持ちを込めて。
「風(かお)留(る)、行ってくるな。できるだけ早めに帰ってくるから」
 数分待ってみたが、中から返事がないことに落胆した。
 眠っているだけだと言い聞かせて、玄関に向かいキャリーケースのハンドルを掴む。磨き上げられた革靴を履いて、上等なスーツについた埃を払ってから玄関の扉に手をかけた。

「しょーり、行くの?」

 はじめは空耳かと思った。
 いや、違う。そう思って振り返ったときには、すでに扉が閉められた後だった。
 扉は動いた気配もなく、静かに俺を拒んでいた。

   002

 広大な、という言葉が当てはまらないぐらいの、どこまで続いているのかわからない氷の山脈を眺めていた。氷の冷たさが、革靴の底を突き破って足の裏から身体を冷やしにかかってくる。出張から帰ってきてから、黒に近いダークグレーの上等なスーツをずっと着たままだった。ネクタイさえ外していない。風留が懇意にしている仕立屋でこしらえたスーツだった。風留はスーツに関して口うるさいタイプで、俺のスーツなのに全て風留の指示のもと、フルオーダーメイドで仕立てられたが、たぶん俺が自分でオーダーするよりも着心地がいい。それからも度々、風留は俺にスーツを仕立ててくれたが、このスーツが一番愛着があった。だから、出張にも着ていったが、こんなことならもっと動きやすい服装に着換えたほうがよかったと今更ながら後悔した。
 それにしても、ここはとことん寒い。遥か遠くまで続く氷の山脈、その尾根からは流れる川すらない。空を見上げれば、そこには無数の星々と、悠々と浮かんでいるいくつかの巨大な天体。ひとつは青白く輝き、ひとつは赤褐色に黒斑点が数個見える。翠玉の天体には周りを取り囲んだリングが見えた。その光景は、地球ではないどこかの星から空を眺めている気分にさせてくれるだけの効果がある。
 しかし、ここは地球外の天体でも、ましてや異世界でもない。俺の肉体は紛れも無く地球にある。
 そしてこの寒々とした、孤独感と寂寞感に支配された世界は、俺の恋人の心の中だ。
 俺は今、風留の精神の中に居る。
 どこからか風が吹いてきた。どこまでも冷たい空気だ。吐く息が白いのは、俺のイメージのせいなんだろう。この世界では、身についた習慣、イメージ、もしくは強く願ったイメージが具現化するという。あの、研究者コンビの言葉を思い出していた。
 癖のように腕時計を見る。ドイツ製の飛行船がモチーフとなったブランドの時計で、茶の革ベルトとシンプルで機械的なデザインが俺に似合うと風留が誕生日プレゼントにくれたものだ。その時計の隣で細い銀色のリングが、一瞬の光線により輝いた。模様もなにもない光沢に磨きあげられたシルバーリングの表面に、うっすらとライトグリーンのデジタル数字が浮かび上がっている。
【11:45】
 タイムリミットは残り十一時間と四十五分。
 悠長にこの幻想的な景色を眺めているわけにはいかない。

 俺は、広大な氷の世界に向けて慈しみと情愛の眼差しを送ると、宛もなく歩き出した。
 失われた愛する人を求めて。

 それより数時間前に遡る。
 他の病棟から隔離された集中治療室の前のソファで、暴れ足りない衝動を胸の中に閉じ込められたまま俺は力なく座り込んでいた。俺の目の前には、医師のような身なりの男が二人立っている。しかし、ぼんやりとした、白昼夢を見ているような意識の中で聞いたかぎりでは、医師ではなく研究者だという。そう言われてみれば、たしかに医師から感じる命への尊厳のようなものが感じられない。
「投薬後十五分か、この状態で説明しても大丈夫だろうか」
「問題ない、他者を認識する自我までは失われていない」
「なら、大丈夫かな。ええと、牧野さんですね、牧野(まきの)彰利(しようり)さん。すみませんねぇ、さっき散々暴れてもらったようなので、精神安定剤を打たせてもらいました。ちょっと意識がぼんやりしていると思いますが、これから田崎風留さんの現在の容体と、これからの回復の見込みと、あとは治療法をお伝えしますね。大丈夫ですね?」
 かいふくのみこみ、と、俺は口に出してみた。なんとも現実味のない言葉だ。
 研究員たちは俺の無反応さを「承諾」と受け取ったらしく、勝手に説明をし始めた。
 研究員の説明をかいつまんでみるとこうだ。風留は地上十五階の部屋から飛び降りたが奇跡的に命は助かった。ちょうど転落地点に、引っ越し作業中でキングサイズのベッドが放置されていた。落ちた風留はフランス製のスプリングに身を投げ出し、そしてバネの力によって大きく跳ねた。その経緯はまさに奇跡としか言いようがなく、肋骨を数本折り、軽くはないが重くもない脳挫傷、あとは打ち身程度で済んだのだ。俺はこの引越し業者には心から感謝した。もし、今日雨でも降っていたら、フランス製のベッドがあんな外に放置されていたはずはない。普段はまったく意識もしない神に感謝の祈りを捧げた。
 命は残った。しかし、命が残っただけだった。
 風留は目を覚まさない。脳挫傷の後遺症かと思われたが、検査結果では脳に異常はなにひとつ見つからなかった。その検査は細胞レベルまでに精密に行われた。か細い一本の血管から神経まで残らず丹念に、今年導入されたばかりの最新脳スキャン技術によって損傷した箇所を探そうとした。その結果、脳には傷一つないという。
 それなのに、風留は目を覚まさなかった。飛び降りたショックで目を覚まさないことだけならば、珍しいことではないらしい。しばらくすれば、目を覚ますのだという。しかし、風留の場合、このまま悠長に目を覚ます日を待っていられるわけではなかった。
「脳波が弱まっている?」
 命が助かったという安心感で少し落ち着いた俺は、研究員の言葉を繰り返した。
「正しくは、脳波だけではなく肉体を走る電気活動が急激に弱まっている」
「つまり、原因は不明だけどこのままでは三日以内に肉体機能が停止して理論上死に至るってこと。いくら機械を繋げても完全な死人を延命することは難しい。いや、今の科学技術ならば不可能ではないよ。けれど、それは機械で人形を動かしているようなものだ。それになんの意味がある」
 薬が効いているせいか、暴れる衝動は起こらなかった。代わりに、怒りで代替していた深い哀しみだけが魂にまで染み込んでくる。
「けれど、それでも肉体さえ維持していればいずれは目が覚めるんじゃ……」
「それは脳の一部が生きていたらの話」
「今はまだ生きている」
「今はね」
 研究員たちは次々と俺が抱いた小さな希望を打ち砕いていく。絶望の中で頭を抱えて蹲る俺を見下ろしながら、研究員はさらに言った。
「科学は現実を見せるものだ」
 現実とは、自ら命を絶とうとした恋人が奇跡的に一命を取り留めたものの、再び目覚めることなく死に向かっているというものか。それに対して俺はどんなふうに受け止めたらいい。恋人の心の病に気づけなかったことへの自責の念か、後悔か、懺悔か。
「牧野さん、このまま嘆いているだけでは何も進展しません」
「だからといって、俺は祈るしかない」
「神に祈っても命は助かりません。でも、貴方なら救えるかもしれない」
 俺は腫れて重くなった瞼を開けて、研究員たちを見上げた。
「俺が?」
「そうです。科学は現実を見せる。そして、希望を作り出す。牧野さん、協力してください。貴方の恋人を救うために」

 衣服についた埃や雑菌をエアシャワーで取り除き、クリーンルームへ入る。真っ白な滅菌作用のある壁に囲まれた部屋の中央に、治療台がふたつ並んでいた。そのひとつに風留が眠っている。俺は風留の体中に設置された機械のコードを踏まないように、そっと近寄った。酸素マスクの向こうで、小さな寝息が聴こえる。生きている。夢を見ているのか、瞼がごろごろと動いていた。寝る前にいつもしていたように、まつ毛の長さを観察する。
 まつ毛は変わらずに美しく伸びていたが、頭部を覆っていた美しい髪の毛は全て剃毛されていた。そこに、いくつもの装置が貼り付けられている。頭を撫でてやることもできない。せめてと、左手を握りしめた。付き合い始めてすぐに、二人で買いに行った細い白金の指輪が薬指で輝く。裏側にお互いの名前を刻印しようと言ったのは風留だった。その時に、この人は案外にロマンチストなのかもしれないと思ったのだ。俺は風留の指先に口付けしてから、隣の治療台に腰掛けた。
「今すぐ、迎えにいってやるかなら。待ってろよ風留」

「牧野さんは映画はよく観ますか?」
 俺に書類を手渡しながら、研究員は言った。
「俺はあんまり観ないけど、風留がよく観ていたから」
「なら、『パプリカ』ってご存知? もしくは『ザ・セル』か『インセプション』っていう映画」
 どの映画も風留と一緒に観たことがあった。リビングのソファに座って、二人で密着しながらワインを飲む。耳元で風留が静かに、映画の内容を補足するように解説してくれるから小難しいストーリーでも楽しめたんだ。けれど、タイトルを言われても、どんな内容だったのかまでは思い出せない。俺は、映画そのものより、映画を楽しそうに解説する風留を見ている方が好きだったせいだ。
「早い話が、これらの映画がやっていることと同じことを行います」
 そうは言われてもピンとは来ない。書類に目を通すと、タイトルに「潜脳認知療法」と書かれているが、さっぱりわからなかった。
「田崎さんの精神世界へ、あなたが直接潜るんです。私達はダイブと呼んでいます」
「俺が、風留の?」
「精神世界、つまりは脳の中ですね。その中で直接的な認知療法を行います。でも、これは赤の他人が行うことはできません。なぜなら、治療対象者の脳に記憶されていない人物ですと、治療対象者は脳に侵入してきた異物を正確に認識できないからです。治療対象者の脳内は、当たり前ですが今まで記憶した膨大な情報を元にして心の描写(スキーマ)される。記憶にない人物が脳内に入ってきても、イメージが創りだされないのです。それではこの治療は無意味になります。そのため、とても身近な人ほど潜脳(ダイブ)しやすいということです」
「風留の脳に入って、俺はどうするんだ」
「対話をします」
 研究員の一人が、俺の目の前にホワイトボードを持ってきて図面を書きだした。
「人の精神世界にはいくつもの部屋があります。ユングは意識と個人的無意識、フロイトはもっと細かく分けていますが。実際は個人差はあれど、複数の心の部屋があると考えています。例えば、会社で働く自分と、家族と話す自分は違うと感じませんか」
 確かに、会社では「社会に馴染もうとする自分」を演じているようにも思えるときがある。
「そうやって人はいくつもの心の部屋を創り出しています。おそらくですが、身体的外傷がない田崎さんがいまだに目覚めないのは、心が生きることを拒否しているからだと思われます。人は、心が死ぬと、呼応するかのように身体も死んでしまう生き物なのですよ」
俺は、集中治療室の扉へ視線を向けた。お前は、生きたいと思っていないのか。俺と、共に。
 命が助かったというのに、風留は俺と生きることを拒否している。
「俺と一緒に生きたくないと思っているのに、俺が風留の中に入ったとして、何ができるんだ」
「目の前に死にかけている人がいるのに、それを放っておくのですか」
「俺と一緒に居たくないと言っているのに、無理やり心の中に入るなんてことはできない」
「田崎さんには、他に身内も親しい友人もいません。救えるのは貴方しかいないんです」
 身内がいないということは聞いたことがあった。友人のことまでは知らない。でも、交友関係は広いはずだった。少なくとも俺よりは。
 風留はあまり、俺に自分のことを話そうとはしなかった。ほとんど、俺の話に付き合ってくれていたように思う。俺は、風留の話をどこまで聞いていただろうか。自分から、知ろうとしていただろうか。
 風留がなぜ窓から飛び降りたのか。あのとき、俺が帰ってくるのを見計らうかのように、目の前で飛び降りたのはなぜなのか。
 俺にだって、知る権利はあるだろう。知りたい。
「俺は、まず、何をすればいいんだ」
「脳に小さなマイクロチップを埋め込みます。開頭する必要はありません。細い注射器で脳を傷つけないように埋め込みます。それがですね、一度埋め込むと二度と摘出はできません。それの同意ですね。それがこの書類」
 研究員が同意書を手渡してくる。
「細い注射器っていうが、頭蓋骨があるんじゃ」
「だから、鼻の奥から」
 言いながら研究員は、自分の鼻の穴に指先を突っ込むふりをした。注射嫌いの俺は、それだけで昏倒しそうになるのを堪える。
「ああ、あとですね。私達研究員は、精神世界でどんなことが起こっているのかは具体的には知ることができません。私達が管理できるのは、貴方と田崎さんの体調管理のみ。精神世界がどのようなところで、どのようなアプローチをすればいいのかは解明されていないのです」
「なんだ、俺は実験ってことか」
「そうです、二組目の実験対象ということになります」
「前の二人は、どうだったんだ」
「ご夫婦でした。奥さんがちょうど、田崎さんと同じ症状になりましてね。旦那さんに奥さんの脳内へダイブしてもらったのです」
 すでに実例があるということで、俺は幾分かは安心した。
「それで、その奥さんは目が醒めたんだろうな」
「いいえ」
 思わず、俺は「は?」と聞き返した。
「ダイブから戻ってきた旦那さんは発狂し、今でもこの病院で入院しています。治療は失敗し、奥さんは亡くなりました」
 俺は言葉を失くした。つまり、それは失敗した例しかないということじゃないのか。
「人の心の奥底にあるもの。そこにあるのは真っ暗な深淵。「深淵を覗く時、深淵もまたお前を見ている」という言葉があるでしょう。しかも、直接脳と脳を繋いだ状態で、相手の狂気的な部分に直に触れたら、相当なダメージを精神に受けます」
「それを覚悟で、ダイブしろっていうのか」
 発狂して、自我を失う覚悟で。
「もちろん、タダでとは言いません。本来この治療法は当たり前ですが保険適用外。しかも目が飛び出るほどの高額な治療費が必要になります。そして、万が一に失敗したとしても、その後のお二人の治療、看護、全て弊研究所が負担いたします」
「そして、悩んでいる余裕もないんだな」
「田崎さんの容体から推測すると、残り時間は一日と持たないでしょう」
 そんなに早いのか。俺は、思考を巡らせようとする頭を一旦停止させた。俺の悪い癖で、いつも物事をじっくりと考えてからじゃないと行動に移せないからだ。腰が重いと、よく風留にも叱られたものだ。だから、俺は考えることをやめた。ここで考えだしたら、俺は答えを出せない。
「わかった。全部承認してやる。だから、さっさと全部の書類を持ってこい」

   003

 風留の心象描写で創られた氷の世界を歩いていく。革靴の底から感じる氷の冷たさはどんどん爪先の感覚を奪っていった。といっても、どこもかしこも氷しかないこの世界で、爪先を温める場所などない。砂漠に住む小さな蜥蜴が、砂の熱さに堪えきれなくなったら、足を交互に上げて凌ぐというのをテレビで観たことがある。俺は爬虫類が苦手だからチャンネルを替えようとしたのに、風留が観たいと駄々を捏ねたせいでそんな知識がついた。
 真似をしようにも、爪先が温まるまで片足を上げていたら、いつまで経っても先へは進まない。時間は有限なのだと、手首のシルバーリングが告げる。
 このシルバーリングは、実体の俺の手首にもつけられている。カウントダウンの数字の他に、数字をスライドさせると自分の心拍数や呼吸数、血圧、体温などのバイタルチェックが確認できる。さらに、外部からの連絡手段としても使用できる。マイクマークのシンボルをタッチしたまま「無事に到着。氷の世界で寒い」と話しかけた。音声認識された言葉が文章化されて外部の研究員が管理するパソコンへと送信される。すぐさま研究員から「メール確認。体温の下がり過ぎに注意。早急にキーパーソンを探されたし」という返信がシルバーリングの表面に流れてきた。どこかで見たことあると思ったら、飲食店の入り口に立てかけている看板だ。「今日のおすすめランチはハンバーグ定食」と、黒の背景に電子文字が流れてくるやつ。
「キーパーソンと言ってもな」
 脳にチップを埋め込む前の打ち合わせ時にも研究員は同じ言葉を言った。心の中にある多数の人格を統括する人格があるのだという。それは必ずしも表面的に出てきている人格(俺と話している風留)とは限らないらしい。そのキーパーソンを探し出し、より精神の奥底に眠る「本音」に会いに行かなければならない。
 話を聞いているうちに、どこかのRPGゲームでもプレイする気分になった。世界を統べる王に会い、魔王を倒しに行く。
 歩きながら辺りを見回すも、人の気配は全くない。人の心の中だというのに、人の気配がないというのもおかしな話だ。
 この、表面的な世界を見ると、風留が「氷の帝王」と呼ばれていた理由がわかる気がする。しかし、俺はやっぱりピンとこない。

 田崎風留と出逢ったのは、三年前になる。
 でも、それよりも一年前に、俺は風留のことを知っていた。おそらく一方的に。
 初めて見たときの風留は、取引先の会社のエレベーターホールで携帯端末を眺めていた。恐ろしく美しい横顔をしていた。携帯端末を眺めるその横顔は今でも鮮明に思い描くことができる。中性的な繊細さもあったが、細くがっちりとした逞しい筋肉がついているとスーツ越しにでもわかった。俺は、交換用のトナーを抱えて、美しい人の斜め後ろに立った。一本一本が黒曜石で創られたような毛先の隙間から白い頸が覗く。俺は生まれて初めて、男の首筋にかぶりつきたいと思った。
 あとから、その美しい人が社内外で噂の「氷の帝王」と異名を持つ田崎風留だと知った。知った時は、なるほどと妙に納得した。
 周りからの評判を聞くと、田崎風留の人物像はまるでフィクションだった。ネイティヴイングリッシュを喋るため出身はイギリスだとか、ケンブリッジ大学に通っていたとか言われているが、本人は肯定も否定もしないらしい。
 仕事はとにかく完璧。入社して間もなくグローバル広報室の室長となったという。社員の誰一人として田崎風留の正確な過去を知らない。それでも出世できたのは実力主義の外資系企業だったせいもあるようだ。見た目と異例な出世のおかげでメディアからのオファーはたくさんきているようで、たまにビジネス雑誌に載っている美しい顔を見たことがある。
 仕事の完璧さは自分だけでなはく、他者にも求める。そのため、部下にはとにかく厳しいが、失敗すれば自分が尻拭いをする。器がある、というよりも、その失敗さえ予想しながら動いていると、風留本人から聞いた。失敗するとわかっていても、部下に頼らざるを得ないなら、予めどんなエラーが出るのか全てシミュレーションしているのだ。しかし、厳しい反面、褒める時は褒める。部下からすると、厳しい鞭のあとの甘い飴が癖になるらしい。そのため、部下からは慕われていた。
 俺はそんな噂話を聞いて、海外ドラマの主人公みたいだなと思った。現実味がないのだ。しかし、実際に取引先に行けば風留は存在した。話しかけることはしないが、いつも無意識に姿を探していた。

 ミステリアスな上に様々な武勇伝のついてまわる田崎風留とは正反対に、俺こと牧野彰利はごく平凡な家庭で育った。よくある街並みのよくある一軒家。地方銀行員の父親、専業主婦の母親、弟よりちょっと出来のいい姉。よくある家庭環境。ちょっと出来のいい姉は俺を奴隷のように扱ったが、それもまた姉を持つ弟としては珍しくない苦労話だ。酒の席で話しても「あるあるネタ」として幼少期のパシリネタを披露する。
 その姉は大学卒業後に市役所に勤めて、それから職場結婚。今は子ども二人の母親だ。
 俺は姉ほど要領良く過ごせなかった。男にしては大人しいタイプだったせいか、小学生の頃に軽い苛めに遭っていた。中学生、高校生になっても友人は多くは作ることはなかった。人の気持ちに鈍感で、無意識に他人の地雷を踏みぬく癖があるらしい。姉から散々聞かされた俺の最大の短所だ。
 東京の大学卒業後はそこそこ名のあるコピー機リース会社の営業マンになった。毎日、交換用のトナーを抱えて取引先を回る。新しい取引先を開拓するために、門前払をされながらも奔走する日々だった。
 しかし、俺の勤めたコピー機リース会社はいわゆるブラック企業でもあった。
 サービス残業は当たり前で、終電がなくなってタクシーで家まで帰るとその日働いた給料が交通費に消えることもあった。
 ある日上司に、さすがにこのままでは身体が壊れてしまうと訴えたところ、なぜか俺だけ無理やり定時に帰らされることになった。同僚の恨めしそうな視線に堪えながら、帰宅する。時間は余るので、家事を一通りこなした。料理は随分と上手くなった。
 それでも仕事への姿勢は崩さなかった。幸運なことに、取引先からは俺の仕事は丁寧で親切だとご好評を頂いていたからだ。しかし、それすらも上司は気にくわないようだった。

 モチベーションが底辺まで落ち込んでいたとき、新しいコピー機を入れたいという話がきた。それがあの田崎風留が所属する外資系お菓子メーカーのグローバル広報室からの依頼だった。昼飯もろくに食べずに広報室へ向かった。
 直接依頼してきたのは広報室ではなく、企業の総務部からだった。わかっていたが、搬入する先が広報室なので俺はそれだけで心が躍るように嬉しかった。
 総務部の女性社員に案内されて、広報部のコピー機が置かれている場所を調べた。古いコピー機から新しく取り替えるために、必要なケーブルや社内ネットワークの確認をするためだ。俺は安いスーツに埃をつけながら、床に這いつくばってケーブルを探した。情報漏洩を避けるために無線LANで繋げずに、有線ケーブルにしているらしかった。しかし、前の施工者は乱雑にケーブルを纏めている。俺は顔も知らない施工者に怒りを覚えた。
 書類棚の隙間に無造作に丸められていたケーブルを綺麗に纏めて、総務部の女性社員に「早くて三日以内には納品できます」と言いながら振り返った。
 そこに居たのは総務部の女性社員ではなく、田崎風留だった。
 田崎は首を傾げて俺を見下ろしていた。片手に革製のファイリングを抱えている。
 俺は驚きの余りに思考停止して動けなかった。田崎はじっと俺を見下ろしてから、手を伸ばし、俺の前髪についた埃を取ってその辺の床にぽいっと捨てた。
「彼と話がある。終わったらそっちに寄越すよ」
 田崎は総務部の女性社員にそう伝えると、俺に手を差し出した。掴まれという意味だと察するに数秒かかったが、手を掴んで立ち上がった。
「第二会議室空いていたな、借りるよ」
 俺の埃だらけの背中を押して、田崎は会議室に入った。ちょっと待ってて、と言うなり出ていき、戻ってくると温かいコーヒーが入った紙コップを持ってきていた。
 俺は紙コップを手に取ると、慌てて名刺を取り出した。
「ああ、ええと、マルミヤ商事の牧野です」
 震えながら名刺を渡したのは新入社員で初めて営業に行ったとき以来だった。田崎は名刺を受け取りながら自分の名刺も差し出す。
「知ってるよ、牧野さん」
 喉の奥から変な声が出そうになった。抑えて名刺を受け取る。宝物のように自分の名刺ケースの上に重ねて紙コップの隣に置いた。
「そんな、恐縮です。あ、こんな汚い姿で申し訳ないです」
 田崎はイタズラっ子のように微笑んで、コーヒーにスティックシュガー二本とフレッシュミルク二個を入れた。甘党なんだ。
「構わないよ。君の一生懸命な姿を見てると、僕も元気になる」
 そのときの俺の心情をなんと伝えたらいいのだろう。天にも昇る気持ち、この上ない喜び、恐悦至極。いや、両腕を掲げて「やったあ!」と叫びたい気分だった。
 やった、見ろ、俺のやり方は間違っていなかった!ザマアミロ!
「実は、広報室の他にも古い複合機を使っている部署があってね。この際だから僕が声掛けられるところの複合機を全部入れ替えてはどうかなと思っている」
「はあ、だいたいでいいですが、どのぐらいの台数になりそうでしょうか」
「秘書室以外の部署全部。最近は電子書類がメジャーになりつつあるけど、紙の書類の需要はまだあるよ。特に企画室やうちみたいな広報、あと宣伝あたりは高機能な複合機が欲しい。ポスターやポップの色合いを見るために使用頻度が高い。だから、十二台は必要だね」
 十二台という台数にコーヒーを吹き出しそうになった。区役所の複合機を一斉に交換するときにそれぐらいの台数は扱ったことはある。しかし、今回は新規契約になる複合機も含まれていた。部署によっては別のリース会社から複合機を搬入していたからだ。つまり、この会社の複合機を全て弊社との契約に切り替えるということだ。
「よろしいのでしょうか。広報室である貴方がそれを決めてしまって」
 本音だった。総務部でも経理部でもないのに、広報室の室長が全部署の複合機の決定権を持っているとは思えなかった。
「だいたい同じ会社で複数の会社から複合機をリースしているなんて無駄じゃないか。それに総務部や経理部からもいい提案だと後押しされている、そこは問題ないよ」
「大変ありがたいご提案です。ですが、見積もりを見てもらえれば一目瞭然ですが、弊社のリース料は決して安くはないですよ」
 実際に、弊社以外にも格安のリース会社はたくさんあった。そこそこ値段は取る分、そこそこのサポートはする。サポート面においては評判はいいほうだとは思う。それにしても、やはりコストは高い。
「安いよ、サポートに君がいるなら」
「とんでも、ないです……」
 外の音が一切遮断された部屋の中で、空調の音がやけに耳に入ってきた。冷房から暖房に切り替わって一週間ぐらいだろう。そろそろ、コートも用意しなければ外回りが厳しい季節になってくる。
 コーヒーを飲み干しながら、田崎が他社の、しかも平凡な営業マンの働きぶりまで見ていたとは驚きだった。
「でも、タダとはいかないな」
 なんとなく、そら来た、と直感的に思った。そんなに美味い話が転がっているはずがない。特に自分のような平凡な人間に、運良く大きな契約が降ってくるはずがないのだ。なにか無茶振りでもされるのだろうと思って、俺は若干身構えた。
「今夜、二十一時にここの店にきて。そこで話しよう」
 渡された名刺を見ると、ホテルのバーの名前が書いてあった。バーなんてそもそも行ったことがない。
「かしこまりました、二十一時にかならず伺います」

 俺はきっちりと二十一時に指定されたバーに向かった。
 その二時間後、日付が変わる前にはホテルの部屋のベッドで俺たちは寝た。
 翌朝、田崎風留の首筋に作った噛み痕は、着込んだシャツによって隠された。