百日紅の誘い

 男性用のコックコートを手にして、黒(くろ)丸(ま)朔(さく)は洗濯機の前で考え込んでいた。
 染みついた生クリームは洗濯機に放り込んだだけでは消えることはないと、この二年間の間にイヤというほど経験している。そこでぬるま湯につけて漂白剤で予洗いする方法を試そうとしたところで、背後から「さぁくぅ……」と現世に未練を残したまま死んでいった幽霊のような声が聞こえてきた。
「びょういん、つれてけ……」
 振り返ると、トイレから這い出てきた姉の昭(あきら)が、恨めしそうに朔を睨みつけている。
 姉は都内の会社、いわゆる丸の内OLで社内でも評判の美人なのだが、朔の目の前でソファーに寝転がる昭はそんな評判とかけ離れた姿をしていた。
 蒼白い顔、目の下のクマ、痩せこけた頬。どこからどう見ても病人だ。
 病人だとわかった上で、朔は昭の命令に対し、「なんで」と質問した。
 すると昭は、痩せて奥にくぼんだ瞳から、するどい不可視光線で朔を睨みつけた。
「なんでって、あんた車の免許とったでしょ。家庭内の病人を運ぶ権利がある」
「権利を放棄する」
「間違えたわ、義務よ義務。とにかく連れていきなさい、どうせ学校休みなんでしょ」
 もとよりそのつもりでいた。少しの反抗は妹としてのプライドからだったのだが、姉の命令は絶対であると心得ている。
 というのも母子家庭の朔が学費の高い調理専門学校に通えているのは、姉が学費を賄ってくれているおかげでもあるのだ。
 業務用漂白剤を混ぜたぬるま湯にコックコートを浸し、立って歩くことができないという姉を抱えて車の助手席に乗せた。姉の方が朔よりもずっと小柄なので、横抱きにするのもそこまで苦ではない。
 一応、仕事中である母の携帯電話へ「アネキトク クルマ カリル」とだけメールを送り、車を総合病院へと走らせた。
 休日前の金曜日ということもあってか、総合病院の一階受付は事務のお姉さんが列を整理しなければならないほどの混雑ぶりだった。
 昭の鞄から診察券を出し、受付機のスロットルに差し込む。事前にネットで予約をしていたので、自動的に受付番号と予約時間が記載された紙がにょきっと出てきた。
 ロビーの長椅子で目を半開きにして苦しんでいる昭に「歩ける?」と訊くと「ムリ」と簡潔な答えが返ってきた。しかし院内で抱えられるのはイヤだというので朔はわざわざ病院の車椅子を借り、それに昭を乗せて内科のある二階へと向かった。
 予約はしていたが、それでも混雑しすぎていて予約通りにはいかないと看護師に告げられ、「もうどうでもいい」と目を閉じた姉をよそに、朔は持参してきた文庫本を開いた。
 狭時雨の新刊「咲散りし紫微花」
 紫(し)微(び)花(か)というのは百日紅(さるすべり)の別名だ。
 幼い頃の病のせいで右目を失くしてしまった主人公は、先代から受け継がれてきた木造平屋で独り、孤独に暮らしてきた。ある日、植木屋が入らなくなって久しい庭に、一人の少女が迷い込む。日本人であるのに異国の服を着た少女は、この家に入ると熱に浮かされたように記憶が曖昧になり、どこへ帰るべきか忘れてしまうという。主人公はしばらくその少女を家に置いといてやるが、しだいに少女に心惹かれてゆく。
 病持ちの自分など人に恋してはならぬと自制するが、少女の優しさに気持ちの歯止めがゆかなくなる。
 ならば、いっそのこと、紫微のように百日めいっぱい咲き乱れ、そして一気に散れば良い。

 物語がいよいよ盛り上がってきたところで、突然、本が手元から離れた。
「さっきから何読んでるのよ」
 昭は、奪い取った本をパラパラと捲って、一番最後の解説を見ている。
「狭時雨の新刊」
「はざまときさめ? しぐれじゃないの」
「ときさめ」
 一文字ずつ強調して昭に言う。
「へえ、なに恋愛もの?」
「幻想小説家なんだけど、今回は恋愛色が強い」
「恋愛」と聞いて昭は読む気になったらしく、始めのページに指を戻した。
 しかし元は幻想小説家の作品だ。決して柔らかいとは言えない文体に、姉はどこまで堪えられるのだろうと様子をみる。
 案の定、ページを捲るたびに眉間のシワが深くなっていき、庭の描写がつらつら書かれているあたりで「ダメだ、今日は読める状態じゃない」と両手をだらりとぶら下げて負け惜しみを吐き捨てた。きっと、体調がよくても途中で諦めるはずだ。
 背もたれに頭をもたげ、脚をだらしなく開いた今の姉の姿を会社の同僚が見たら、さぞ面白いことになるだろう。
 携帯電話で撮影するかどうか悩んでいるところで、受付番号が呼ばれた。「六番診察室へお入りください」とアナウンスされたので、撮影は諦めることとなった。

 結局、軽い脱水症と診断された昭は別室で点滴を打たれながら「暇だわ」と何回も愚痴をこぼしていた。が、数分と経たないうちに大きないびきをかき始めた。
 暇を持て余してきた朔は読書を再開させようとポケットをまさぐったが、財布とキーケース、携帯電話以外に何も入っていなかった。
 そういえば昭から返してもらっていない。昭の鞄も探るが見当たらず、パジャマのどこかに入れたのではと寝ている昭の身体をまさぐっていると、うしろから「コホン」と咳払いが聴こえた。
 振り返ると、年配の看護師が怖い目で朔を睨みつけている。
「ご主人、ここは病院ですよ」
 どういうつもりの注意なのか全くわからず「はあ」としか言えなかった。
 意味を理解していないと気づいた看護師は苛立った口調で「ご夫婦のことはご自宅で」と語尾を強調して言うので、朔は自分が姉の夫だと思われていることにようやく気づいた。
「すみません、そんなつもりはなく、汗をかいていたので拭いてあげようとしたところでした」
 朔がとっさに説明すると、看護師はさっきとうってかわって笑顔になり
「あらごめんなさいね、タオルお貸ししましょうか」と訊いてきたので、遠慮なく拝借することにした。
「私ったら変な勘違いをして、ごめんなさいね。時々病院で変なことをするカップルがいるものですから」
 タオルを置いて看護師は去っていった。
 男に間違われて当たり前と割りきっているので、あえて否定はしない。
 タオルを借りた手前もあるので、姉の身体にまとわりついた汗を軽く拭いて上げた。
 自分とは違う豊満な胸の谷間を拭いても起きる気配がなかったので、乳首を摘んでやったら妙な声を出したため慌てて部屋を退出した。
 点滴は二袋たっぷりとするらしく、まだまだ時間がかかりそうだと判断し、本の捜索に出ることにした。
 待合室のソファ―にでも置いてきたのだろうと探すが見つからない。
 失くした本はたかだかワンコインで買える値段だ。しかし、姉に学費を工面してもらっている以上は、どんなものでも大切に扱わないといけない。
 別に母や姉から直接言われたわけではないが、朔はそれを最低限の筋の通し方であると考えていた。
 ソファーの下も屈みこんで覗き、歩いた場所を何度も往復するが見つからなかった。
 次第に朔の顔に、落胆の色が表れはじめる。
 通りすがりの者は、ただぼんやりと突っ立っているだけに見えるかもしれないが、朔の頭の中では
 もう一冊買うことはできない
 続きは図書館で読める
 でも手元に置いておきたい
 何としても見つけ出す
 けれど見つからなかったらどうしよう
 エンドレス。
 ずっと堂々巡りの脳みそを抱えたまま、フラフラと院内を彷徨う。
 ふと、病院玄関の掲示板に目をやった。
 予防接種の費用や携帯電話の電源オフの注意喚起ポスターの中に、「お忘れ物は総合案内まで」と張り紙があった。
「そーごーあんない……」
 消え入るように呟くと、朔は何かを思い出したかのように勢いよく振り向いた。そこには「総合案内」のプレートが掲げられたカウンターがあった。
 早足で近づき、事務員の制服を着たお姉さんに声をかける。
「あの、すみません、落し物をしたんですが」
 お姉さんは慣れた口調で落とした物と場所を朔から聞き出し、そしてどこからともなくポン、と会いたくてたまらなかった本が出された。
「あ、これです」
 そっけない物言いだが、内心は踊りだしたいぐらいに喜びに溢れていた。
 見つかったことに安堵して、深く息を吐き出す。
「ではこちらに受け取りのサインと連絡先をご記入ください」
 言われた箇所に記入してから、姉が眠っている処置室へ意気揚々と戻った。
 ベッド脇にあった椅子に座り、百日紅の花が描かれた表紙をひと撫でする。手元に戻ってきた実感を噛み締めてから、ゆっくりと本を開いた。
 そのときだった。
 はらりと、栞の挟んだページから何かが舞い落ちた。
 大きな花弁に見えたが、拾ってみると一枚の白いメモ用紙だった。
『この本をお読みになるあなたとお話してみたいです。』
「おやおや」
 文末に連絡先と思われるメールアドレスが書かれていた。
 電話番号がないのは、初対面の人と会話をするのが苦手だからだろうか。
 朔はメモ用紙を天井の電球の光にかざした。
 上質な和紙には、名の知らぬ花の透かし絵がうっすらと写っていた。
 一見、女性らしい感性の持ち主のようだが、その筆跡は繊細であれど、大胆かつ一本一本の線はしっかりと紙に彫り込むような力強さがあった。
 朔はこの小さな手紙を残した主は男性であろうと考えた。
 そして、これが自分に宛てられたものではなく、昭へのメッセージだと汲み取り、同時に送り主へ少しばかりの同情を抱いた。
 昭にはすでに結婚を約束した相手がいる。
 何より面倒くさがりの昭が、このような申し出にほいほい了承するはずがない。
 しかし、朔としてはこの大切な本を拾ってくれた主に一言でいいから礼を言いたい気持ちがある。
 かと言って、勝手にメールを送るわけにもいかないので、とりあえずは姉の目覚めを待つことにした。
 謙虚に咲く花を再び本の間に挟み、読書を再開した。

花棄て人

 二本の輸液を打たれ、顔に生気を取り戻した昭は、家に着くなり自室にこもってベッドに潜った。寝るのかと思いきや、布団の中でパソコンを弄っている。遊んでいるわけではなく、仕事をしているようだ。
 邪魔をしてはいけないと気を遣い、朔は漂白剤に浸けておいたコックコートの洗濯にとりかかる。飛び散ったブルーベリーソースのシミを亀の子タワシでこすってから洗濯機に放り込んだ。生クリーム臭さが落ちていますようにと手を合わせて祈る。
 昼に冷凍ご飯を使い、具だくさん雑炊を作った。
 昭を階下からダイニングに呼びつけるが、返事がない。部屋まで呼びに行ってようやく気づいた昭は、パソコンから顔を上げた。
「あのさ、あんたに本、返したっけ」
「返してもらってない」
「え、うそ、やっぱり、どうしよう」
 焦りだす姉の目の前に、ジーンズのポケットから文庫本を出した。
「落し物で届けられてた」
 本が戻ってきていたことに安堵した昭は「なーんだ」と気の抜けた声を出した。
「戻ってきた本の中にこんなの入ってた」
 例のメモ用紙を昭に見せると、「なにこれ」と怪しげに紙を人差し指と親指で摘まむ。。
「メアドが書いてあるじゃない」
「会いたいらしいよ」
「会ってくれば」
「私じゃなくて昭ちゃん」
 すると昭は片眉を釣り上げて「なんで私なのよ」と、慌ててメモ用紙を返品してきた。
「あんたの本なんだから、あんたが行きなさいよ」
「このメモは昭ちゃん宛てだよ」
「なーんでそうなるわけ」
「これ書いた人は男の人」
「それも納得できないけど、まあいいわ、それで?」
 昭は腕を組んで話の続きを顎をしゃくって促してくる。
「本を落とす直前に読んでいたのは昭ちゃん、この人は昭ちゃんのものだと思っている。そしてこの人は昭ちゃんと話がしたいと思った。この現象は私なら起こり得ないこと」
「あんたねえ」
 昭は頭を抱えて、深い溜息を吐いた。
「なんでそんな考えができるんだか」
 小声で呟き、やれやれとばかりに首を横に振った。朔の自身へのコンプレックスの根深さを昭は承知している。だが、ときどきそんな妹を煩わしく思わないこともない。
 昭は続けて大きく口を開き何かを言いかけたが、一度開いた口を閉じて、人差し指をまっすぐに朔へ向けた。
「朔、あんたこの人に会ってきなさい」
「なんで」
「なんで、じゃない。どうせお礼も言いたいと思ってるんでしょ。とにかく会って来なさい、これはお願いじゃないわよ、命令です」
「メイレイ」
 命令ならば仕方がない。それに会う前にはまずメールで連絡を取るのだ。事前に昭ではなく自分が行くことを伝えればよい。
 しかし姉の差し出してきた手を見て、その考えが甘かったことを知る。
「ほれ、ケータイ貸しなさい」
「なんで」
「相手にメールするのよ。あんたに任せると余計なこと書きそうだから私がやるわ」
「私が会うのだから、私がやる」
「ダメよ、どうせ昭の代理でもいいですかーなんて書くに決まってるんだから」
「真実を伝えて何が悪い」
「つまんないでしょうが」
 朔は、昭の厄介な性格を失念していた。
 お節介にとれる行動ではあるが、基本的に面白そうな事象にしか首を突っ込まないのである。こうなっては彼女の好きにやらせるしかないことを、朔は長い付き合いの中で悟っている。
 朔が携帯電話を渡すと、昭は慣れた手つきでメモ用紙に書かれたアドレスを登録し、次にメールフォルダを開いた。
 朔には真似できない高速フリック入力でどんどん書き込んでいき、ついには勝手に送信してしまった。
「なんて書いたの」
「ほれ」と画面を向けられる。
 そこには本を拾ってくれた礼状と、マイナーな狭時雨の本を知っている人に拾ってもらえた嬉しさ、そしてぜひ自分も会ってお話してみたいという内容をとても丁寧にかつ上品に書かれていた。何より、少ししか読んでいないはずの本の内容を、さも全部読んだかのように簡潔に感想を述べているところは舌を巻くしかなかった。
 自分ならこんな上等な礼状は書けないので、むしろ感謝したいぐらいだ。
 実際に感謝の意を表すことはしないが「ほう」と感嘆の声を上げた。
「ほうって、まるで他人ごとだけど朔が送ったことになってるんだからもっと自覚しなさい」
 姉の主導権の中で起こっている出来事を自分の意志で決めていると思い込めなど無理な話だ。
 返信はすぐにやってきた。昭の拳の中で携帯電話が震える。
「うわ、はや。なになに、こんなに早くメールをいただけるなんて思ってもみなかったので、とても嬉しいです。改めて自己紹介をします。はじめまして狭(はざ)間(ま)時(とき)晴(はる)と申します。嘘みたいだけど本名です。名の通り男です。いきなりお会いするのは難しいと思いますので、まずはメールのやりとりから始めますか、だって。メールからなんてまどろっこしいな、とっとと会う日程決めちゃいましょ。朔も夏休みなんだし」
 また朔の意向を無視してメールを打ち始める。送るとすぐに返事が来る。相手もなかなか素早い対応だ。
「僕は自由業なので、都合はそちらにお任せします。か、じゃあ明日ね」
 さすがに黙って聞いていた朔も「え、明日?」と不服の念を込めて言った。
「鉄は熱いうちに打てって言うじゃない」
「使い方ビミョーに違うと思う」
「とにかく明日って送ったからね」
「いつの間に……甲賀の者か」
「なんで忍者なのよ、コンピューターカウボーイぐらい言えないの?」
「まさかのニューロマンサー」
 それから何度かのメールのやりとりで決まったのは、明日の午前十一時に銀座三越の獅子の銅像前で待ち合わせということだった。
 目印は「咲散りし紫微花」の文庫本。
 半ば強引にセッティングされた見知らぬ人との待ち合わせだが、初めて同じ趣味で語り合えるかもしれないと思えば、少しだけワクワクした。

 翌日、すっかり元気を取り戻した昭は、休日出勤のためにスーツを着込んでいた。
「本当にドタキャンは許さないからね」
 玄関に小走りでやってきた昭は、靴箱の上の鏡を覗きこむ。後頭部に付けっぱなしのヒートカーラーに気付いていない。
「ちゃんと行くよ」
 朔は昭の後ろに立って、ヒートカーラーをとってあげた。
「あと、その服で行くつもりなの」
 振り返った昭は、腕を組んで朔の頭から足元まで睨みつけた。
 リネンのタイパンツに黒のシャツ、玄関にはストラップのついたレザーのサンダルが置かれている。特にめかし込むことなく、いつも通りの妹の姿に昭の目尻がピクリと痙攣する。
 朔は軽く言い訳を考えて
「七分で涼しいクールビス」
 とタイパンツから覗く脚を昭に見せつけるが、昭の目尻の痙攣は止まない。
「メイクもしてない、装飾品はごつい時計だけ、おまけにメンズのファッション」
「失敬な、タイパンツは男女兼用だ」
「あんたの着方がメンズだっての。もう私の服貸してあげるわよ」
「着られない、いろいろと」
 昭よりも頭ひとつ分背が高く、しかも幼少の頃から鍛えあげられた肉体に、昭の服はサイズも合わなければ自分には似合わないと自覚していた。
 レースのついたワンピース、セクシーなタイトスカート、嫌いなわけではない。むしろ、そんな服をきっちり着こなしてしまう昭をいつも羨望の眼差しでみている。
 しかし朔には、何が何でもそれらの可愛い服に袖を通せなくなったおぞましき過去がある。
「まさか、朔、あのこと引きずっているの?」
 姉の言葉に頷くように、朔は目を細めた。
 あれは、はるか遠い記憶、中学入学式の朝だった。
 小学校は私服だったためずっとズボンで過ごしてきた朔だが、中学生になって初めて制服を着ることになった。
 性別は一応女ということで、、母は迷うことなくセーラー服を購入した。
 朔もまた、ずっと男と間違われてきたが、中学生になってセーラー服を着用し、さらに胸の膨らみが出てくればさすがに男には見えないだろうと高を括っていた。
 おろしたてのセーラー服に袖を通し、いざ学校へ向かう。
 彼女は新しい生活の幕開けに少し舞い上がっていたのかもしれない。
 つまり、自分の身長はすでに成人男性並みに成長しており、発する声も低く、その精悍な顔立ちの姿をすっかり忘れていたのだ。
 朔は朝のパトロールをしていた警官に職務質問をされた。
 運も悪かった。一緒に家を出るはずだった母は、急な腹痛のためにトイレにこもり、先に朔だけを行かせたのだ。
 その日以来、朔は二度とスカートを穿かなくなった。
 中学は学ランを、高校はブレザーだが男子と同じものを着ていた。
 自分はスカートを穿いたら変態にしか見えない。
 それならば、私はスカートを捨てよう。
 そう胸に強い決意を刻み込み、朔は男の服しか着なくなった
 クラスメイトたちの爽やかイケメンという賞賛に辟易しながらも、女性扱いされない境遇に堪えながら生きてきたのだ。
 今更ワンピースなどという、ひらひらしたものを着るなど言語道断、斬って棄てるのみ。
「そんなわけで昭ちゃん、時間」
 朔が腕時計を指先でトントンと叩く仕草をすると、昭は慌てて外へ飛び出していった。
 朔も家を出て戸に鍵をかける。
 待ち合わせの時間にはまだ早いが、せっかくなのでカフェで読書したり銀座の街をぶらつこうと考えていた。銀座には有名な洋菓子店がたくさんある。
 全て食べて回るわけにはいかないが、ケーキの盛り付けや店の内装を観察するだけでも、朔にとっては有意義な過ごし方だった。

 銀座のめぼしい洋菓子店を見て回った。だいたいはネットで拾ってきた情報と、学校内で評判の良かった店だ。どの店も店内の雰囲気も良く、デコレーションも店によって個性があった。洋菓子店のウィンドショッピングもなかなか楽しい。
 待ち合わせさえなければ、片っ端からケーキを買ってデパートの屋上で食べていたかもしれない。
 時間が迫ってきたので、三越前に向かう。
 なにやらいつも以上に人だかりができていた。
 どうやら獅子の銅像に猫が二匹涼をとっているらしく、人々は携帯端末を掲げて写真を撮ろうとしていた。
 朔も猫の姿を少しでも拝もうと近づいてみたが、なかなか猫の姿が見えない。猫の撮影は諦めて、携帯端末をポケットにしまった。
 人混みを少し避けて、ぎりぎり日陰になっているところを陣取り目印である本を手にした。
 天から降り注ぐ熱線が容赦なくアスファルトを焦がし、夏の栄華を嫌でも感じさせられた。 汗が額を伝う。
 不思議と緊張はしていない。
 ただ、姉ではないと知って落胆する相手を想像していた。
 とりあえず姉ではないことをまず詫び、それから本の礼を言う。以降は相手の出方しだいで午後の予定は大きく変わるだろう。
 最悪の場合は、怒って帰るかもしれない。
 いや、なんとなく、そんなことはないだだろうと朔は思った。
 あのメモ用紙の筆跡からして、お目当ての人が来なかったからと激昂するような人ではないと感じていた。
 朔の直感は遠く外れたことがない。
 自分の直感をいつも信じるようにしている。
 これは、自分を守るための防衛本能でもあるのだ。

 そろそろ約束の時間だろうかと時計を見る。
 待ち人を見逃さぬように、通り過ぎる人々を眺める。
 日差しによって作り出された濃い影たちは、地面の模様をめまぐるしく変化させた。みな、暑さから逃れたくて必死に歩いている。
 晴海通りの交差点の信号が赤になると、歩行者天国を遮られた人々が溢れかえった。警官が交通整理をしている。
 ふと、川のように車が流れる対岸の端に、車椅子に乗る男性が見えた。電動ではなく、手でホイールを動かすタイプのものだ。昨日、昭を乗せるために借りた病院のものよりもシンプルで軽量化された車椅子だった。
 青になり、警官が笛を鳴らして歩行者たちを誘導する。
 車椅子の人は、まわりの足並みに遅れをとらぬようにと手を動かした。
 白のシャツにグレーのカプリパンツを穿いたその人は、夏の陽にさらされて輝いて見えた。多くの人の流れの中でも目立っている。朔は他にすることもないので、そのまま車椅子の人に視線を合わせていた。
 すると、歩道に乗り上げる手前で車椅子はピタリと停まった。
 段差が乗り越えられないのでは? と手を貸すべきか悩んでいると、車椅子の前輪がひょいっと浮き、軽くウィリーしながら歩道に乗った。そんな技があるのかと、妙に感心してしまう。
 車椅子の主は少しだけ辺りを見回し、その視線が朔とぶつかった。
 朔も負けじと、じっと視線をぶつけていく。
 すると、車椅子の人の表情が笑顔に変化し、まっすぐに朔のほうへと向かってくる。
 じろじろと見過ぎてしまったから怒られるのかな、と思ったが、その車椅子の人の膝の上に見覚えのある百日紅の花が咲いた本が乗っかっていた。
 車椅子が朔の目の前で停止する。
 主の笑顔は変わらないまま、朔を見上げた。
「はじめまして、狭間時晴です」
と、初対面時に見せる「声をかけるのはこの人でいいのか」という迷いなどなく、はっきりと自己紹介をした。
 糊のきいた白いシャツが、とても眩しかった。

甘味に群がる 一

 第一印象としては「清潔感ただよう青年」だった。
 癖のない黒髪と日に焼けていない白い肌が、より一層に身奇麗さを際立たせている。
「あの、僕と待ち合わせしている人ですよね」
 返事のないことに不安になった狭間は、本を手にして確認をとるように朔に見せた。
「はい、そうです。今日は姉の代理で来ました黒丸朔と言います。本を拾ってくれたお礼をどうしても言いたくて私が来てしまいました。すみません」
 予想外の出来事に棒読みになりつつ頭を下げると、狭間は口元に優しい笑みを残したまま首を傾げた。
「おかしいな、僕はあなたに会いたかったのだけれど」
「私に、ですか」
「だってそれ、君の本では」
「そうです。落とした直前は姉が読んでいたので、てっきり姉にアポをとったのだと思いました」
「うーん、そうなのかあ。それについては後で話さない? とりあえず涼しいとこ行きませんか」
 狭間によると、東銀座のほうに馴染みのカフェがあるというので、そこを避暑地として選んだ。
 狭間はホイールを掴み、慣れた手つきで車椅子を進ませる。
 黒を基調とした色合いで、余計なものを根こそぎ省き軽量化された狭間の車椅子は、地面とタイヤの摩擦をあまり感じさせないほどスムーズに動く。
 とは言っても、真夏の炎天下をずっと手動で車椅子を動かすのは辛いのではないかと思い、朔は背についているハンドルに手を伸ばした。
「お」と手への負荷がなくなったのを感じた狭間は振り向いた。
 勝手に押したのはマズかったかもしれない。
「押してもいいですか」と改めて訊ねる朔に、狭間は「よろしくお願いします」と笑いながら軽くお辞儀をした。
 こういう場合、どこまで手伝ってよいのか頭を悩ませる。
 一度、杖をついている人が落とした小銭を拾ってあげたときに、「余計なことをするな、自分でできる」と叱咤されたことがあった。
 朔としては脚が不自由だからと特別に親切にしたつもりはなく、たとえ健常者であっても同じ行動をとったであろうが、その人にとっては「余計なこと」だったのだ。
 朔は少し考えてから「狭間さん」と呼んだ。
「なに」と狭間は軽く振り返って、すぐに視線を前に戻す。
「私には車椅子の知り合いがいないので、わからないことがあります。だからいろんなことを教えてくれますか」
 朔が訊くと、一呼吸おいてから「うん、わかった」と狭間は答えた。
 歩行者天国になっている中央通りを抜け、松屋銀座とブルガリの間を築地方面へと下ってゆく。さらに昭和通りを渡り、新しいマンションとコンクリートがひび割れた雑居ビルが建ち並ぶ路地を歩く。
 この辺りになってくると、銀座の華やかなイメージはなく、最近建築された建物と上部が住居になっているような古いビルが入り交じる不思議な空間になっていた。
 住居や雑居ビルのほかに何もないような場所だが、細い路地裏のすきまに隠家のようなバーやレストランがちらちらと見える。
 オープンテラスのカフェテリアからは、客と店主の笑い声も聴こえてくる。
 銀座には何度も訪れたことはあったが、東銀座のほうは全くの初めてだった朔は車椅子を押しながら物珍しげに辺りを眺めた。
「そこの路地裏に入ってくれる?」
 狭間の指した方向は、大きなマンションに挟まれたとても地味な路地裏だった。普通に通りかかるだけでは見落とすに違いない。
 言われるがまま、奥へと進む。
 長時間、日陰だったのか、冷えたコンクリートからひんやりとした空気が流れている。
 路地裏の突き当りに、一件の古い木造の家屋が現れた。古いのは二階部分だけで、一階はごく最近に改築したらしく、洋風の六枚硝子がはめこまれたドアがつけられていた。
 そのドアを開けようとした朔を狭間は引き止めて、ドアの横にカブトムシのようにくっついている小さなインターホンを押した。
 大きめのプランターに植えられたジャスミンが花開き、涼しげのある香りをあたりに漂わせている。水遣りをしたばかりなのか、白い花弁が濡れていた。
 扉の硝子に人影が映ったかと思うと、中から黒のエプロンをした男性が現れた。男性は人懐っこい笑みを朔と狭間に向けて「どーぞー」と二人を店内に招き入れた。
 看板もなにもなかったため普通の民家だと思っていたが、中はれっきとした喫茶店だった。
 三人掛けの丸いテーブルが三つ、奥にカウンターがあり、カウンターテーブルに隣接してケーキの入ったショーケースがあった。
 古い建物ではないのだが、柱や床板に深みを出すためのニスが塗られており、室内は全体的に暗い印象を受けた。
 日当たりも良いほうではないので、天井からぶら下がったランプとショーケースの灯りだけが優しく店内を彩っている。
 カウンターに男性客が一人、その他に二人を迎えた店主らしき男性以外に人はいない。
「はいはい、ハルの特等席へご案内」
 店主は笑顔をこびりつかせたまま、他のテーブルと離れて置かれてある壁際のテーブルに移動し、椅子をひとつ部屋の隅に寄せた。
 椅子がどけられた空間に、車椅子を停車させる。
 朔は狭間の向かい側に座った。
 二人が着席したことを確認した店主は、テーブルの中央にある硝子のコップの中に火を灯した。コップの中は蝋の塊らしい。小さな炎は、新しい光源として朔の手元を仄かに照らした。
「ここの店主は南(な)雲(ぐも)といって、中学からの友人なんだ。二年前にTホテルのパテェシエを辞めて実家であるここで流行らない喫茶店を道楽でやりはじめた少し変わった男だよ」
 狭間の紹介が終わるタイミングで「よろしくねー」と南雲はピースサインをつくった。
「Tホテルのパテェシエ」
 朔がそこだけ復唱すると「いやあ、厳しかったナァ」と南雲はわざとらしく言った。
「実は私も今、調理専門学校の製菓コースに通っているんです」
 朔が言うと、狭間と南雲が「へえ」と声を揃えた。
「午前中に銀座の洋菓子店まわったけど、ここは見落としていました」
「見落として当たり前だよ、南雲は宣伝になるようなことは一切しないから。それでもどこからか客が来るところが憎たらしいところだけど」
「よっぽど俺のケーキが上手いんだろうナァ。さて、お客様、ただ今ランチタイムですがどうなさいますか」
 渡されたメニューを開くと、二種類のパスタランチがあった。ご飯になるようなものはそれだけで、あとはケーキセットやコーヒー紅茶の種類が並んでいるだけだった。
 朔はナスと燻製豚のアラビアータ、狭間はトマトとルッコラの冷製パスタを注文した。
 セットになっているケーキをどれにしようか悩んでいると
「ショーケースを見ておいでよ」と狭間に促されて、朔は席を立った。
 南雲は「決まったら教えて」と言い残して、カウンター奥へと引っ込んだ。たちまちオリーブオイルとニンニクの香ばしい匂いが店内に立ち込める。
 朔はショーケースの前にかがんで、今か今かと中で冷やされながら指名される瞬間を待っているケーキたちを吟味した。
 全てホールで作られており、注文ごとに切り分けていくタイプのケーキだ。
 林檎のシブーストの表面は、こんがりとバーナーで焼かれ砂糖が焦がされている。
 ティラミスは、その切り口から覗くマスカルポーネチーズの濃厚さが見てわかるほどだ。
 フルーツタルトの上に飾られた果物たちは、宝石のように輝いている。
 どれもこれも美味しそうで、朔はとても悩んだ。
 しかしあまり狭間を待たせてはいけないと思い、数分しない内に席に戻った朔に「もういいの?」と狭間が不思議そうに訊いた。
「うん、決まりました」
「そう? まだ名残惜しそうだったけど」
「名残惜しいですが、また次の機会にじっくりと見ます」
 朔が言うと、狭間はにこにこと笑って
「じゃあ、また来よう」と言った。

 しっとりとしたイタリア語の落ち着いた音楽が店内に流れていた。耳に残る印象深さはないが、心地良さはある。
 テーブルに二つのジャスミンティーが運ばれてきたところで、狭間は「さて」と口を開いた。
「朔さんは僕がアポを取りたかったのはお姉さんのほうだと思っていたみたいだけど、どうして?」
「朔でいいです、酢酸みたいなんで」
「わかった、朔って呼ばせてもらうね」
 狭間は結露で濡れたグラスを手にし、ストローに口をつけた。
「さっきも言いましたが、落とす直前まで本を読んでいたのは姉でしたし、何より姉はモテるので、この手のナンパはよくあったんです」
「ナンパ、たしかにね」狭間は声を出して笑った。
「僕はこんなんだから病院へはよく行くんだ。あの病院、内科の奥にリハビリテーションがあるんだよ。たまたま通りかかったときに君が内科の待合室でその本を読んでいるのを見かけたんだ。狭時雨の本を読んでいる人を見かけることって珍しいから、嬉しくって記憶に残った。帰りにもう一度君がいないかと思って内科の待合室を覗いたのだけど、君の代わりにその本が落ちていたというわけなんだ」
「じゃあ、姉が読んでいたところは見ていないんですね」
「お姉さんがいたことすらわからなかったなあ。君しか目に入らなかったから」
 グラスをテーブルにもどした狭間は「ああ」と呟いた。
「今の言い方はナンパだったね」
 そう言われて、朔は狭間の台詞を心のなかでリフレインさせる。
「たしかに少しだけ」
「やっぱりかあ」
 声に出して笑う狭間を見て「よく笑う人だ」と朔は思った。
「とにかく、僕は君と会いたかった。そしてこうして会っていることが嬉しい。それはわかってほしいな」
「わかりました」
 ひとつの罪悪感から解放された朔の顔から、強張りが溶けてなくなっていた。
 他の人が見ても、朔の表情の変化はわかりづらい。そのはずなのに、狭間は
「よかった、緊張が和らいだみたいで」と朔の心情を見透かしたように言った。
「よくわかりますね。私、何考えているのかわからないってよく言われるんですよ」
「はは、まあ表情豊かとは言えないかも」
 狭間は「うん」とひとつ合の手を入れてから続けた。
「ときどき車椅子に乗っているだけで嫌悪感を持たれることがあって、そうなると一緒にいてもお互いのためにならないから初対面で相手の表情を読み取るのに慣れたんだ」
「そうですか」
 そんな車椅子だけで嫌悪感を抱く人もいるのだと知って驚いた。でも、そういう人も存在するのかもしれない。自分を男だと勝手に間違えて女とわかった瞬間に態度が豹変する、そんな人がいることもあるのだから、あり得なくもない。
 この人は、今までいろんな傷を受けながらここまで生きてきたのだと思うと、せめて自分と一緒にいる間は楽しく過ごして欲しいと願う。
「私はどんな表情でしたか」
「緊張はしていたけれど、嫌悪感はなかったと、思う」
「もちろんです、大当たりです」
 晴海通りの交差点で、一生懸命に車椅子を進ませていた人は、あの集団の中で一番眩しかった。
「やった、当たった」
 狭間は無邪気に喜んだが、すぐに顔を曇らせた。
「ごめんね、いきなり重い話をしたね」
 狭間の詫びに、朔はぶんぶんと首を振った。
「いいえ、狭間さんのこと教えてほしいと頼んだのはこちらですから」
 狭間は、ああそうか、そういうことーと照れくさそうに笑って
「うん、どうしよう、急に緊張してきたぞ」
と、気合を入れ直すように車椅子を座り直した。

甘味に群がる 二

 小皿に入ったサラダが運ばれ、それがなくなる頃にメインのパスタが目の前に現れた。
 朔のものは真っ赤になって湯気立ち、狭間のものはトマトとルッコラが涼しそうにパスタの間で眠っていた。
「南雲はパティシエだけど、普通に料理の腕も良くてね──」
 もっと他に話すことはあるはずなのに、食事中はずっと料理に関しての話だった。あまりの美味しさに他の話題を出しながら食べるのはもったいないと思ったのだ、二人とも。
 南雲が空になった皿を下げに来た時、狭間は
「ケーキ半分こにしてもらえる?」と注文した。
 南雲は「へいへい」と軽い返事をするだけで理由は聞かないが、狭間の注文の意味を理解しているようだった。
 遅れてきたケーキ皿に、真二つにされティラミスとフルーツタルトが乗せられていた。さらにチョコレートソースと生クリームで美しくデコレーションされている。
「これなら、ふたつ味わえるね」
 狭間の言葉で、朔はようやく半分にした意図を察した。
「あ、ありがとうございます」
「ハーフ&ハーフってことで、これ正式にメニューにすればいいのにね」
 するとコーヒーを持ってきた南雲が「んなメンドーなことお前ら以外にやるか」と客の要望を却下した。
 ティラミスもフルーツタルトも、半分にされた以外はごく普通の見栄えだった。それなのに、ティラミスにフォークを突き刺す瞬間、やけに脈拍が早まった。
 朔は、この動悸の原因がわからないままティラミスを頬張る。
 舌の上で甘くとろけるマスカルポーネチーズにココアパウダーの苦味が交じり合う。あとからコーヒーの香ばしさが口に広がった。奥行きのある味わいに思わずうっとりする。
 目を閉じる。とても美味しいものに巡りあうと、朔は他の四感をシャットアウトし、味覚だけで楽しみたくなる。
「美味しそうに食べるね」
 目を開けると、少年のような瞳で狭間がじっと見つめていた。
「僕が作ったわけじゃないけど、嬉しくなるよ」
「とっても美味しいです」
「うん、美味しい」
 狭間もフルーツタルトを口に運ぶ。歩けないというのが不思議なぐらい、綺麗な食べ方をする。見ているだけで気持ちがいい。
「ところで、どうして狭時雨の本を読もうと思ったの」
 ここでようやく、本日の本題へと入った。
 狭間の質問に、朔は記憶を掘り返す。
「偶然なんです。たまたま図書館で手にとったらすごくハマってしまったんです。たしか、最初に読んだのは「自由飛行」でした」
「おお、「自由飛行」かあ、懐かしいな。デビュー作だね」
 狭間は目を細めて懐かしんだ。朔は頷く。
「それまで姉の影響でミステリーや恋愛、SFは読んでいたんですが、日本語の美しさに気付かされたのは「自由飛行」が初めてでした。ストーリーだけじゃなくて、文章に対してワクワクすることができるんだって驚きました」
『自由飛行』夢と現実世界を自由に行き来することができる少年ニスの不思議な話。夢と現実の境界がとても曖昧で、日常生活を送っていると思えば、喋る白ウサギが現れて実は夢の世界だったというシーンがしばしば描かれる。
 その中の、少年が古書店にいった時に、店主から言われた台詞が朔のお気に入りだ。
「古書店の主人はこう言うんです。「偶然手にとった本の題名が、今、お前の気持ちに寄り添っている」この台詞でハッとしました。私がたまたま手にとった「自由飛行」もまた、私の気持ちをあらわしているのかなって」
 それは中学二年生の夏休み、朔はとても疲れていた。女として女子と一緒にいれば恋愛感情を抱いてきた女の子に言い寄られる。男子と行動を共にしても、好奇心旺盛な年頃の少年たちは朔の身体をしつこく見せろと言ってくる。
 朔は同級生たちから逃れるために、毎日のように図書館へ来ていた。

「あの頃、私はきっと自由になりたかったんだと気づきました。少年ニスもまた、現実世界から逃れるために夢想する。喋る白ウサギも、お菓子の家も、それは少年ニスが生み出した妄想だった。まるで、当時の私の気持ちがそこにあるようでした。もうそれからです。狭時雨の虜になってしまったのは」
 原因もわからず疲れたと感じることがあっても、狭時雨の本を読むとなぜか疲れの原因がはっきりとわかるようになった。そうか、私は今、人と話すことが怖いんだなとか、また男子トイレで用を足さなければいけなかったこととか。
 古書店の主人が言ったように、狭時雨の本はまさに自分の気持ちに寄り添っているようだった。いつも、鈍感な朔の心を整理してくれていた。

「朔の人生に深く関わってきたんだね」
 狭間の言葉に、朔はしっかりと頷く。
「はい、そうかもしれないです。心の調律をしてくれているような感覚です」
「へえ、面白い読書感だね」
「でも、ときどきとても不安になります」
「不安? どんなふうに?」
「自分に読解力があるのかどうか、という不安です。ちゃんと、その本のことを理解できているのかと」
「そっかあ、うん、そうだね、すごくよくわかるよ、その気持ち」
 狭間はフォークを置き、両手の指先をこすり合わせて「うーん」と唸った。
 何かを考えるときの癖のようだ。
「国語の授業を思い出してみてくれるかな。例えば夏目漱石の「こころ」の一段落を理解するのに一時間はみっちり勉強する。先生やKの気持ちをわかった風になるけれど、実際にテストをしてみると間違えることもあるね。それなのに二、三時間の読書でその小説を理解した気分になるのは読者のおごりだと思うよ」
「おごり、ですか」
「例えば登場人物が何気にとっている行動も、そこにはキャラクターの心理が乗っていることがあるんだ」
 狭間は空になったコップの縁を鷲掴みにして持ち上げた。
「けれど、そんなもの作者の自己満足にすぎない。全ての読者に細かい心理描写や伏線は伝わるはずないって作者だってわかっている。それでもやっぱり、コップを持たせる時には意味を持たせなくちゃいけないんだ」
「多くの読者は理解できないかもしれないのに?」
「うん、心が空っぽのまま行動させてばかりいると、その作品がとても薄っぺらくなってしまうよ。つまり作品に厚みを持たせるために作者のエゴともとれる設定や描写は必要だけど、全てを読者に理解してもらおうとは思っていない。ニ、三時間の読書で得た感想が書き手にとっては結果なんだ」
 狭間の話を聞いている間、朔はずっと胸の高鳴りを感じていた。
 初めて「ガリヴァー旅行記」を読んだときとよく似ている。小人の世界で捕らわれたガリヴァーしか知らなかった当時、原作では巨人の国、天空の国、知性のある馬の国などいろんな国をガリヴァーが探検に出ていたことに大いに驚かされたのだ。
 物事の一片しか見えていなかった自分に、もう一つの覗き方を教わっている。
 世界がどんどん広がっていく高揚感。
「もしかしたら半分も伝わっていないかもしれない、という不安は作家にはないんでしょうか。わかってほしいって思わないんでしょうか」
「わかってほしいという気持ちはあるよ、だから最大限の努力はする。けど、『言葉』を伝えるツールとして使っている以上は叶わない。言葉はとても不安定なものだから」
 そう言って手にしていたコップを置き、かわりにコーヒーを持って口にした。
 狭間のその物言いは、まるで『言葉』の不安定さに日頃から苦しめられているようでもあった。読者の立場で、そこまでわかるものなのだろうか。
 もしかすると、狭間も作家のような仕事をしているのかもしれない。

「狭間さんも、作家とか」
 一瞬、驚いた顔をした狭間は「いやいや」と頭を掻いた。
「作家じゃなくてライターだよ。ぜんぜん違う職種だけど文章を扱うという点は一緒だから、少しだけ理解できるのかも」
「立場が近いと理解しやすい?」
「いや、手っ取り早いって感じかな」
 朔はフルーツタルトのイチゴにフォークを刺した。じゅわっと果汁が染み出てくる。
 狭間も残りのティラミスを食べ始める。
 ふと、狭間のことを考える。

 教えて欲しいと言ったが自分は歩ける以上、狭間のこともまた、そうやすやすと理解できないのだろうと思った。

書籍版に続く

恋を知りたければ星に願いなさい愛を知りたければ空を仰ぎなさい
恋を知りたければ星に願いなさい
愛を知りたければ空を仰ぎなさい

【車椅子爽やか作家青年×パティシエ見習い男装女子】
平均より高い身長と空手で鍛え上げた肉体によって男に間違われる黒丸朔(くろまさく)はある日、落し物として届けられていた大切な本の間に一枚のメモ用紙を見つける「この本をお読みになるあなたとお話がしてみたい」。しかし朔は、これが自分宛でなく姉の昭へのメッセージだと思いこむ。

男女CP 小説、成人向け。
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